stage 3シルクへのオマージュ(賛歌)
T ヒストリー(歴史学) 六合村赤岩部落
U ガボロジー(ボロ学) 西陣工房ショップ・ぺンステモン
V フューチョロロジー(未来学) 昆虫学からのメッセージ
W エコノミー(経済学) テキスタイル・クリエーション・シリーズより
@総論…残照に映える二千年の憧憬
A西陣…古い言葉で歌う新しい詩とは
B鐘紡…紡績界デザイン開発の明星はいま
C富士吉田…甲斐路にきらめく糸の宝玉
Dテキスタイル・クリエーション・シリーズ目次
T.シルク ヒストリー(歴史学)
六合(クニ)村赤岩部落
六合(くに)村赤岩部落 草津、長野原、暮坂峠を結ぶほぼ中央
桐生を中心に精力的な活動を展開しているテキスタイルコーディネーターの高橋和夫氏は、私にとって何時も新鮮な業界情報を提供してくださると共に、古き良き日本へのガイドとして私には得難い存在なのだが、かって碓井峠の麓の碓井製糸をご案内くださった折に、草津温泉の近傍に、昔の養蚕部落の面影を今なお色濃く留めている六合村赤磐部落があって、その保存修復が県の課題になっているというお話があった。物見高いは江戸の常、おねだりをして早速にご案内いただいた。
そこは地図に示すように、長野県新潟県の県境に隣接し、長野原、草津温泉、暮坂峠を結ぶ三角形の中央部にある。 安山岩の屏風岩を背にして白砂川に接し、温泉も湧き出るこの部落は、明治以降、製炭、麻、蒟蒻の栽培と共に養蚕を営んできた。そこには村の鎮守があり河童伝説も伝えられて、古き良き山間部落の一典型になっている。慎ましく暮らし、愛情を傾けて蚕を育ててきた桃源郷だったのである。今なお山村に暮らす知恵がそこここに浸透しているように見えた。
赤岩ふれあいの里委員会と協同組合群馬建築修復活用センターによる共同調査によれば、この部落は全戸数52棟のうち、昭和20年以前、つまり戦前の建物は42%、明治半ばの大火を免れた建物は7棟ある。現在ではすでに廃業しているものの養蚕主体の構造を保持している家は21棟と全体の4割を占めているから、養蚕部落の面影は今なお色濃い。穀蔵、味噌蔵、麻を貯蔵するネド蔵など蔵が35棟と多いことは、かってシルクブームで潤った余栄だろうか。ここは蔵の村といってもよさそうだ。広いとはいえない部落の道をさすらうと、白く繊細な繭を山と積んで、前橋や桐生に出荷した往年の賑わいが、今なお聞こえてくるようだ。そういう部落に滞在し、養蚕のことを学びながら、合わせて山村の習俗を知ることが出きれば素晴らしいことだろう。私たちは村の故老のお話を伺いながら、昔の施設の跡を見学させていただいたのだが、その折にあかざの杖を頂戴した。大きな雑草にしか見えないこの草は、育ち乾くとその茎は強靱な木の幹のようになる。女の裸体に見とれて、雲から落ちてしまったあの気の毒な久米仙人が持っていた杖が、このあかざだったことを後になって知った。
集落の南から東の丘を登ると、かってイズナ(飯縄)さんとの愛称で呼ばれていた赤岩神社があり、集落の中央には修験道の道場である鎮学院がある。現在は知らずかっては、県境の険しい山をめざす修験の行列が、村人に山への恐れと愛着を改めて抱かせたこともあったのかもしれない。然し何より深い感銘を与えるのは、かって高野長英をかくまった湯本家の存在である。長英は幕末の蘭学者。シーボルトに学んで西欧医学の普及に務め開国をめざしたが、渡辺崋山と共に幕府に逮捕され永牢の判決を受けた。然し彼は放火脱獄して江戸市中に潜伏、兵書翻訳に従事した後、宇和島藩の招きで同地に赴いた。翌年に江戸に戻って薬品で面相を変えて医業に従事したが、幕府に追われて自殺した。凄まじいばかりの文明開化の先覚者だったのだが、赤岩に匿われたのは、脱獄の後だったのだろうか。当時は深い山奥だったに違いないこの土地に、決死の覚悟で国事犯を匿った文明開化の先覚者が存在したことは感動的なことである。島崎藤村の「夜明け前」は、復古に憧れた木曽馬籠宿場の有力者が、維新後文明開化へ向かったのに幻滅して狂死するというストーリーだが、赤岩の湯本家は奥深い山間にあって、欧化を支持していたようである。程なく明治が明けてこの集落は、シルクの対米輸出に沸き立つことになったのだった。 帰路、暮坂峠に向かう路傍に、若山牧水の歌碑が立っていた。「渓川の真白川原にわれ等いて、うちたたえたり山の紅葉を」 牧水は酒と旅のうちに生涯を終えた人というから、この旅も恐らく雇った馬の上で、瓢箪の酒をちびちび飲みながら行ったのではなかろうか。
U.シルク ガボロジー(ゴミ学)
西陣工房ショップ ぺンステモン
横は絹織物の耳、縦は廃液染めの生糸 同左を縫製したバッグ
京都西陣が長安の栄華をわが国にもたらすべく、千年をかけてわが国のシルク文化を牽引してきたことは、誰でも知っていること。そのなかから1994年、シルク生産の廃材でもう一つのシルク文化をもたらそうと立ち上がったペンステモンの存在も、ようやく広く世間に認められるようになってきた。千年捨ててきたものから生まれる新しい輝き。その紹介を、ペンステモン自身に語ってもらおう。「ペンステモンは自然の恵みを大切にし、捨て去られようとする物を蘇らせるエコロジー商品の開発に喜びを感じています。創る人、使う人たちのコミュニケーションを通じて、地球環境にやさしい生き方を提案しています。現在、横糸に絹織物の耳糸を使い、縦糸に残液で染めたシルク素材を使用し、手織で無駄なく織り上げています。商品はすべてオリジナルで美しく長く愛用できる「人と地球に優しい」物創りをめざしています。ガボロジーとは「ゴミ学」という意味で英語のGarbage(あら、ごみ)からきた言葉です。エコダイニング(廃液染め)とは、染め業を営んでいる工場より出る残液(西陣の場合は90%がシルクの染め)の中に1週間から4週間までつけ込んで染める自然法の染め付けで、その時に流れ出る染料やタンパク質、セリシンなどの量によって一回一回の染まり方が赤みのグレーになったり青みのグレーになったりで付着する程度が異なってきます。時には思いも寄らない風合いやシルキーな感じに染め上げられています。廃液染めと言っても残液ということで決して人体に害を及ぼすものではありません。」ガボロジー万歳!
廃液染めのストール 廃液染めの綿
V.シルク フユーチョロロジー(未来学)
昆虫学からのメッセージ
津村耕祐のドレス@ 津村耕祐のドレスA
東京コレクションのさなか、スパイラルホールの1階ホールで開かれた津村耕祐のショーを見るために集まった観客は、モデルがまるで巨大な蜘蛛の巣のようなものをまとって歩くのを、ただ唖然として見守った。自分たちが見たものが、これまで世界に存在しなかった不可思議なドレスであり、それが明けていく21世紀へのただならぬ警告を秘めていたことを知ったのは、かなり後のことだった。
これはスパイラルホールが推進してきたランデブープロジェクトの成果発表の一環だった。高い技術と知識を持つ企業、研究者と、自由な立場と柔軟な思考を持つアーティストのコラボレーションによって、新製品のプランを作りあげていこうというのがその趣旨であり、その発表の一つとして津村のショーが行われたのだった。津村が何を語りかけたのかを知るためには、そのコンセプトの根源である東京農業大学の長島孝行助教授に伺わなければならない。そこで早速、首都圏南部丘陵地帯のキャンパスタウン、本厚木に所在する大学を訪ねることにした。
シルク・ポリエステルを溶かすと… 変身した緑のネクタイ 蚕が作った紙 長島助教授のテリトリーは、農学科の資源生物分野だった。人間にとって有用な生物を研究するということなのだろうか。そのなかで助教授は研究室を率いて、特に昆虫との共生を追求しておられた。昆虫などの節足動物は地球上の生物の9割を占め、まだほとんど資源として開発されておらず、その可能性は無限と言っていいといわれる。例えばその研究中の一つに、約二億年前からほとんど形を変えず、わが国の水田にも生きているカブトエビがある。水田の雑草を掘り起こしてしまうボウフラを大量に捕食するその性質を利用すれば、無農薬の米作りにも役立つ。これまで人類は牛、馬、羊などの哺乳類とは密接に連携してきたが、昆虫については養蚕の他は、虫の声を楽しむなど、ささやかな関係しか持ってこなかった。こうした人間と昆虫の連帯によって、新世紀を切り開くというコンセプトを追求するこの研究室のなかで、今特にハイライトを浴びようとしているのが、人類が紀元前から寝食を共にして付き合ってきた蚕との関係を、改めてもう一度根本的に見直そうという挑戦である。絹糸を作り出す昆虫は野蚕を含め10万種をゆうに超すというから、研究領域としても広く深い。そしてこの研究は物好きで進めているのではない。人類の命運がそこにかかっているらしいのである。考えてみれば人類は今、その存続が問われるような重大な段階に差し掛かっていると、助教授は強調される。重大な危機は二つある。一つは後70年で石油が枯渇してしまうことである。天然ガスがあるといってもあと百数十年、メタン系のエネルギーも数百年で枯渇する。他方、世界人口の恐るべき増大がある。20世紀だけで4倍に増え、60億人に達した人口が、今後どこまで伸びていくのか。そこに天候異変が追い打ちををかけた時には、全地球の規模で深刻な食糧パニックが発生する。未曾有の繁栄のなかにあって人類は、実は存亡の危機に直面しているのではないか。これに対処しようという学者の問題意識は、2000年1月に行われた浜松市の科学技術フォーラムに結晶し、千年持続学会の設立が動き出した。長島氏はその熱心な推進者の一人であり、彼のシルク研究はその課題に直結している。
蚕の紫外線汚染(左上だけが繭で保護されていた) ウガンダの巨大繭・クリキュラ
当面設定されている課題は、繊維のリサイクルである。永く使う。古着の流通を促進する。ボロを利用する。すべて好ましいことだ。しかしそのリサイクルに当たってエネルギーを消費することは極力避けなければならない。そうでなければエネルギー消費を抑えることにはならないからだ。たとえばポリエステルをペットボトルに再生することは、そのリサイクルのためにエネルギー消費を伴うから、十分な対策とはいえない。その点シルクには極めて有利な性質がある。塩化カルシウムというごく平凡な薬品で、簡単に溶けてしまうのである。シルクが、簡単な薬品で素晴らしい好ましい結果を生み出す例には、この他にたとえば塩縮加工がある。摂氏80度の硝酸ナトリウム、あるいは塩化ナトリウムに1分ほど浸けるだけで面白い収縮がもたらされる。合繊はそうはいかない。シルクとポリエステルを合わせた繊維を塩化カルシウムに浸けてみたら、溶けたシルクのフィルムにポリエステルの繊維が溶けずに浮かび上がっていた。溶けたシルクは簡単に様々なものに利用できる。例えば緑のネクタイの変身を示した写真がそれを雄弁に物語っている。またそれは飲料にもなる。
蚕から糸を採るのではなく、シルクフィルムを作ってしまう新潟朝日農協の試みも、蚕が想像以上に優れたクラフトマンであることを教えている。蚕が繭を作る時角度を少しずつ変えていくと、平面に糸を吹き出して紙状の物になり、工芸材料になる。しかし繭が紫外線をカットする機能を持っていることは、もっと本質的な能力である。繭に紫外線を照射してもなかの蛹はその影響を受けないが、繭を剥がして紫外線を当てると、成虫にはなるが、紫外線の障害を無惨に受けてしまうことは、写真の示す通りである。このように蚕は紫外線をカットする機能を持っている。したがって蚕から採るシルクも、当然にその性質を継承することになる。このうち家蚕のシルクは、日焼けはするが、癌化する危険のある部分はカットする。野蚕は癌化と日焼けの双方をカットする。津村のコレクションは、シルク・ポリエステル交織を塩化カルシウムで溶かしたり、蚕が平面に繭を作ったりする実験をアパレルデザインのなかに例示したものだったのである。このように優れた機能をもつ蚕のなかで、われわれ人類が利用しているのは家蚕と若干の野蚕に過ぎない。しかし10万種あるというこの昆虫が、他にどのような恩恵を人類に与えてくれるのかという研究は、まだ始まったばかりなのだ。たとえばアフリカ、ウガンダのクリキュラというような巨大種は、一体どんな恩恵を人類にもたらしてくれるのだろうか。このような研究は、豊かな自然のなかにある発展途上国の現場における研究と、その高度利用を開発する先進国の努力という、地球的な規模の協力関係によって推進されていくのだろう。虫が好かないという表現があるが、虫と人間が新しい友情で結ばれる日が来るかどうかに、新世紀、新ミレニアムの命運がかかっているようなのだ。シルクはノスタルジーであるだけではなく、途方もない遠くを展望する未来学でもあるのだ。(toppageへ)
繭から作った飲料@ 繭から作った飲料A
W.シルク エコノミー(経済学)
テキスタイル・クリエーション・シリーズ(ギャップ・ジャパンより)
@シルク総論 A西陣 Bカネボウ C富士吉田
筆者は、ギャップ・ジャパン誌の依頼により、1990年春から特集・テキスタイルクリエーションを執筆した。幸い、大きな反響を呼び、特に全国のテキスタイル産地から熱い支持を受けた。最初から何号続けるか決めていたわけではないのだが、これだけ期待されているなら、テキスタイルクリエーションの全ジャンルをひとわたりやろうということになり、このシリーズは1995年まで6年間にわたって連載された。一応の完結の後、単行本として出版してほしいという要望が強く、有力な出版社2社に検討していただいたのだが、かなり厚いものになるのに加えて写真も多く、廉価なものにはなり得ない。その上この企画は読者に限りがあって採算のめどが容易に立たない。そうこうしているうちに不況に突入、今なお出版の見通しはない。今回はそのシリーズのなかから、シルクにかかわるなかの4篇をご披露して、ご参考に供することにした。わが国のテキスタイルクリエーションは、1980年代に現代的な体質を身に付けるようになったのだが、90年代前半はそれが絢爛と開花した時期に当たり、その後新しいものは次々に登場したにしても、その基調は持続している。したがって世界に特異な地歩を占めているわが国のファッションテキスタイルの全体を総覧する上で、今なおこのシリーズは十分に有効なガイドになっていると信じるし、世界に類書は存在しない。何とかまとめる方法はないものか。フロッピーディスクによる電子出版という方法もあるかも知れないと模索しているので、是非とも皆様のお知恵とお力をいただきたと熱望している。
U.天然繊維篇A動物系
1.[シルク@]
残照に映える二千年の憧憬
絹の国のシルクいまいずこ
邪馬台国も織っていた
わが国にとってシルクは、テキスタイルデザイン以上の存在だった。それは日本人にとって、権威の源泉であり、文化の象徴であり、繁栄の形式だった。
そもそもそれが、隣の超大国中国の、しかも日本にほど近い山東地方に生まれ、黄河流域に広がったという経緯は、日本人とこの糸との宿命的な因縁を感じさせる。
中国における生糸の発生は、2千3百年前までが確認されている。西暦前1世紀の漢の時代には綾、錦も織って、この古代織物はすでに一つの成熟期に到達しており、その名声は遠くヨーロッパにも聞こえていたというから、その歴史の古さに驚く。
そういうわけだから、中国文明圏に属する日本が絹を織り始めたのも、神話の時代まで遡る。弥生時代に山東地方から北九州に移住してきた人たちがいたことを、最近の研究が明らかにしていることと照らし合わせてみると、あるいはそんな浸透のルートもあったかもしれない。
日本の原点である邪馬台国の存在を初めて文
書に記録した魏志倭人伝には、女王の卑弥乎が中
国に班布、つまり縞の絹織物を献上したと記されている。奈良県天理市にある3世紀末の下池山古墳で発見された絹織物は、古代日本シルクの見事さを垣間見せた。漆の箱に収められた銅鏡を包んでいたのは、縦縞の平絹、茶色平絹2枚、絹綿、兎毛の毛織物による5層の袋で、その縦縞は藍、黄緑、茶の先染糸で織られている。この縦縞は、
日本書記の注釈書、釈日本紀に青筋の布と記載されている倭文ではないかという。
国の形も定かではない古代から、倭国独特の文様を意味する倭文の絹を織ってきたこの国の皇室が、いまなお養蚕の古式を行事として守っていることのなかにも、この国とこの糸とのただならぬ縁が物語られている。民間が古い絹織物を復元する折に、いまも小石丸という古い蚕種を皇室から分けていただいているのも床しいことだ。
絹あってこその日本
2千年近い日本の歴史は、より優れた生糸と絹織物を実現するという、たゆまぬ学習の道程だった。遣唐使の船は、仏教の教典とともに、絹の技法を伝えただろうし、明代の金襴緞子綾錦は、シルクテキスタイルの最高の表現を日本にもたらした。その技法は西陣に蓄積され、それは千二百年の古都の文化的権威を支えた。
こういう次第だから、室町時代から安土桃山時代にかけて、採鉱冶金の発展によって世界有数の資産国になった日本が、世界最高の中国生糸、絹織物とその技法の習得に、大金を惜しげもなく投入したのは当然の成り行きだった。1530年代末に日本が中国生糸購入に使った銀は、当時の世界産銀の3、4割に達したといわれ、それは当時の2国間貿易の最高記録だったと推定されている。
明が鎖国し、日本の産銀が枯渇するにつれて、最高の生糸と絹織物をめざして中国と西陣に挑戦しようという全国競争が、各藩の産業振興政策を背景に推進される。そのなかに勃興した産地としてあげられる桐生、加賀、越前、近江、丹後、甲斐、福島の名を見ると、いまに至るまで繊維生産の中核になっている産地体系の多くが、このシルクへの情熱に起因していたことがうかがわれる。
シルクがなかったら、日本の近代化はおろか、国の存立すらどうなっていたか判らない。明治の開港以来、生糸、絹織物の輸出は、国民経済に欠くことのできぬ資金の源泉だった。またこれ無くして、日露戦争の戦費も賄えなかったのではなかろうか。いや敗戦の手傷を癒し、高度成長への糸口を掴むためにも、それは必要不可欠だった。世界に冠たる合繊開発も、シルクへの2千年の憧憬無しには考えられないことだった。
戦後シルク政策の末路
それを思うにつけ、現在わが国のシルク産業の衰退には、ただ呆然とするばかり。日本経済の発展にともなう生産コストの上昇と円貨の値上がりは、日本のシルクの国際競争力を微塵に砕いてしまった。他国に需要のないキモノ織物はともかく、他国と競合する洋装織物の苦境は、見るも無惨である。
しかし何も輸出だけが産業の使命ではない。また糸から製品までの一貫生産も、産業の唯一の形式ではない。生糸を海外から買い、あるいは製糸を海外移転し、製織も海外、国産を使い分けていくという国際化政策を巧みに運用していくなら、日本の高度のシルク表現は海外製品に対抗することができるし、輸出も不可能ではないはずである。
現にイタリアはシルク製品輸入をコントロールしながら、順調にシルク生産の国際化を進めている。
それをわが国では、シルク製品は完全自由化して、その洪水のような流入は放置しながら、一方それに対抗しようとする、糸、絹織物の輸入や国際化については、手も足も出ないように統制し、産業の存立すら危ぶまれる状況を作り出したしまった。
信じられないようなこの政策は、農民票欲しさに、何よりも養蚕農家の利益を守るという意図から生まれた。しかもそれは、養蚕すら衰亡に陥れてしまった。
インポーターの一人勝ち
繭、生糸の貿易自由化が、農産物のトップを切って87年に行われたころには、政府には国際化によるシルク産業活性化の見取り図が存在していたように思われる。ところがこの結果、安い中国生糸が雪崩のように流入するに及んで、自民党蚕糸懇話会が中心になって、蚕糸事業団による一元輸入という、国営貿易体制を作ってしまい、養蚕農家中心の政策を確立してしまう。
やがてウルグァイラウンド合意によって、この管理貿易は関税一本にしぼられていくのだが、キロ当たり8千円という高率関税では事実上の禁輸に近く、しかも事業団は糸価維持の買い入れ枠をもっており、96年4月に行われた介入では連日のストップ高、一気に6割も値上がりした。この糸値では、マーケットに氾濫するインポートシルクに対して、手も足も出ない。
それではせめて海外で製糸、製織してもらい、国内で加工して、日本ならではの意匠、質感を実現しようと志しても、絹織物輸入は割当制で、その枠は78年対比95年で42%にまで縮小されており、しかもシルクを扱わない業者が枠の7割を握っていては、この手もままならない。
それではこの政策によって養蚕事業は潤っているのかと思えば、まったくそうではない。戦後直後には百万戸近くあった養蚕農家は95年には1万4千戸に減り、販売蚕量は、ピーク68年の12万トンから5千トンまで落ちている。年産50億円という事実上の壊滅状態に対して、いまなお80億円の保護費が投入されている。このように戦後日本のシルク政策は、養蚕、製糸、製織、製品のいずれの利益にもならず、インポーター一人勝ちという状態を生み出してしまった。
21世紀初頭には完全自由化することになっているが、この政策では、日本のシルク産業が果たして、新世紀の陽の目を見ることができるかどうか疑わしい。そのような政策不況のなかに、それでもシルククリエーションに情熱を燃やし続けけているそこここの産地を歩いてみた。
2.[シルクA]
古い言葉で歌う新しい詩とは
西陣の21世紀を予感させる布たち
京都は奥が深いということ
自分がねらう企画を実現してくれる装置とアーティザンを求めて、全国を股にかけて駆け巡る東京のミニコンバーター、アシュ・ペイルの吉田隆之は、京都は奥が深いですと、いまさらのように言う。
1995年に建都1200年を迎えた京都は、つい120数年前まで日本の首都だったところ。美術工芸一つとっても、10世紀を超えて日本文化をリードしてきた。いまさら深いのどうのは片腹痛いと京都人はいうだろう。テキスタイルにしたところで、京友禅と西陣織が日本テキスタイルデザイン伝統の頂点だくらいは、子供でも承知している。
しかし吉田を感動させているのは、そのような美術館目録に類することではない。京都が長期にわたってありとあらゆるデザインに挑戦してきたなかで、こんなことまでできるのかという、技法の数々を蓄積してきた。通常そういう特殊な能力は、問屋の指示で生産工程を手配する些皆屋の手で掬い上げられ、まとめられきた。外からは容易に分からない、長屋の奥に潜んでいるそのような特別な技法を、折に触れてそこここに見出した感動を、吉田は語っていたのである。
その一例として、一度ミヤタケを訪ねてごらんなさいと勧められていた。行ってみたら何のことはない、ここまた、三宅・皆川ラインが年来取り組んできたメーカーだったことが判った。毎度のことながら、彼らのテキスタイル開発の執念には、頭が下がる。
先鋒を貫いた歴史
ミヤタケのオフィスの脇に、「山名宗全邸跡」の石碑があるのに驚いた。宗全といえば、15世紀後半、室町時代、将軍足利義政を継ぐ家督相続をめぐって勃発した応仁の乱で、西軍の中心として、東軍の細川勝元と激しく争った武将だったことは、義政夫人、日野富子を扱ったNHK大河ドラマを見た人なら、よく覚えているはず。西陣という地名は、その西軍の陣があったところからくる。ミヤタケは、まさに「西陣」そのものに陣取っていた。所在町名も山名町とある。
平安遷都とともに、日本の織物生産の中心に定められたここ西陣は、遡れば中国織物技術を伝来した太秦の秦氏につながる。江戸初期には中国、
明の技法、デザインを導入して、金襴、唐織、錦などの当時世界最高の織物を生産し、明治に入ってからは、西欧技法導入の先鋒として、ジャカード織にも先駆した。丹後、長浜、桐生、足利、八王子、米沢など、日本産地のすべてはこの西陣に学び、それを超えようと努力を傾けてきてこそ、現代日本の繊維産業があるのだから、いまその伝統の停滞にどう苦しんでいようとも、日本テキスタイルデザインの源流としての歴史的事実は小ゆるぎもしない。
アーティザンの仲介として
そうかといってミヤタケは、その本流を継承しているわけではない。大正8年に帯地生産をここで始め、モガモボ台頭の昭和8年にネクタイ製造に転換、いまなお西陣の精緻な製織技法を駆使して、国産高級ネクタイの最右翼に位置する。その技量は、この円高にも関わらず、一流ネクタイ卸の朝倉を通じて、対米輸出されていることにも立証されている。
ところでネクタイは、織り50p四方で2本、染め1m四方で4本取れ、ミニマムロットは存在しないというから、短サイクル小ロットの雄でもあるだろう。 戦後、ストール、ショールも手掛け、80年代初頭から洋装生地にも乗り出した。87年に丹後織物産地の中心、加悦町に工場を移転、現在レピア14台、ジャカード装置をもち、出機含め7、80台体制という。
服地に進出したについては、三宅一生との縁があった。社長、宮竹宏太郎の妻欣子と、三宅デザイン事務所副社長の小室知子は10代のころからの友人で、そこから同じ京都出身の皆川魔鬼子とつながっていった。一生にすればミヤタケは、京都のなかに秘められている技法の数々を引き出す重要なパイプになり、ミヤタケにすれば、思いもよらなかった現代クリエーションに、引き寄せられていくことになった。一生が求める技法のすべてをミヤタケがもっているわけではなかったから、ミヤタケは京都の未知の能力を一生に結び付けるコンバーターとしての役割をも果たすことになり、ミヤタケに依頼された京都のアーティザンは、次第に一生の世界を理解するようになり、パリコレクションのステージにアッピールされる彼らの素材を、克明に配られる一生の写真で見るなかに、そこに浮上するもう一つの未知の京都を感じ取るようになった。
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