stage 5
楽洛庵散歩
a.雑貨時代がやってきたぞ!
b.眼に触れるままにボンジュール
c.ウィーンとロンドン
d.犬も猫もステージへ
e.ギフトに感動f.鴎外の故郷・津和野でg.さようなら高原君
a.雑貨時代がやってきたぞ!
吉田真紀のステーショナリー トロッターのための吉田デザイン トロッターのための吉田デザイン グローブトロッターの新作
靴やハンドバッグ、アクセサリーなどを抜きにして、ファッションスタイルを構成することが不可能なことは誰でも知っていることなのだが、これまでのクリエーションは、ややもすればアパレルにかたより、服飾雑貨デザインに十分なハイライトが当てられないうらみがあった。しかしそのなかで雑貨独自のデザイン活動が、このところようやく目立つようになってきた。靴では前々から際立っていた卑弥呼の粘り強い努力を先頭に、アルフレッド・バーニスターなどのクリエーションが光り始めているが、ここにきてバッグデザインにも見るべき動きが出てきた。その一つがグローブトロッターによる吉田真紀デザインの起用である。英国のグローブトロッターは、103年の歴史をもつ旅行鞄メーカー。16層に重ねた強靱なファイバーを使って、今なおも手作りで生産されている、知る人ぞ知る英国の老舗で、その名の示すように、百年前に世界旅行のブームを先取りした志は、今なお衰えることを知らない。今回起用された吉田のデザインは、イタリアの高級皮革と伊リモンタ社の高級コットンキャンバスを三層に重ねた素材を使用して、これまでのトロッターに新風を吹き込んだもので、ブリティッシュスピリッツ、イタリアンテクニック、ジャパニーズデザインのトリオで構成されているのだという。デザイナーの吉田真紀は武蔵野美大工芸工業デザイン科の出身で今40歳、デザイン能力全開の時期を迎えている。美大卒業後稲葉賀恵に師事、さらにタケオ・キクチの小物企画を手掛け、服飾デザイナーの兄に誘われてワールド、さらにはニコルグループのステーショナリーなどの小物雑貨デザインに進出した。このようなDC系の取り組みに始まって松屋、シップスの店頭にも進出するようになる。98年には「M.Y.ブランド」を立て上げるとともに、家具照明にもジャンルを広げた。2000年にはパリのカサボ展に出展、欧米のセレクトショップなどに絶賛され、パリのコレットを始めとする世界展開が始まった。このような内外の活躍がグローブトロッター・ジャパン社長、田窪寿保の目に留まり、今回の取り組みが実現した。その才能への高い評価は、英コンランショップからウシオスペックスまで幅広く世界に広がりつつある。来るべき雑貨デザインブームの明けの明星というべきか雑貨デザインは永らく陽の目を見なかっただけに、見るべき人材がそこここに隠れているものと考えられる。その一人に若井知尚を上げることができるだろう。彼も吉田と同じ武蔵野美大、生活デザイン科の出身、同大学のファッション教育を推進している小池一子の指導を受けながら服作りに取り組んできた。卒業後、荻窪の原口良子のアトリエで、コスチュームデザイナーを勤め、続いてアパレルのアルファスピンで服作りと共に小物雑貨の企画もまかされた。こうしてキャリアを積みながら、全国350店というわが国最強の体制をもつデリカと契約し、同社企画リーダーの松尾仁之と組んで、efffyというバッグブランドを立ち上げることになった。efffyのeはedit、三つのfは,function,fabric,fashion,yはyouだという。素材はスェーデンのイルムス社を始め、イタリアのリモンタ社、さらには柳宗理と、ハイセンス、ハイグレードの体制だが、併せてこのバッグの大きな特徴であるバケツ風の収納を実現するために、その革加工に隠れた名工の手業を起用している。日本発の世界の一流品といっていい。
efffyのデザイン@ 同右A 同右B
ところでファッション雑貨のなかの最も成熟したジャンルとして、スカーフ、ショールなどの織物デザインを上げることができるだろう。これは、わが国産地織物のファッショナブルなデザインを、消費者がそのまま楽しむことができる機能と形態を備えているからである。ところがこのジャンルをリードしているサントノーレの存在は、案外知られていない。代表の遠藤建一は川辺系列の川敬というスカーフ・ハンカチの量販卸に17年勤務したが、こだわりの物作りをめざして37歳で独立、同社を立ち上げた。鈴屋、三愛、高野、マミーナなど、当時燃えに燃えていたヤング・チェーンに納入、ネッカチーフ1日数万枚を鈴屋に納入したという記録も打ち立てた。併せて伊勢丹、阪急、大丸などの百貨店にも10年にわたって納めてきたが、百貨店の服飾雑貨販売の在り方に疑問を感じ、三越通販のみ残して百貨店から撤退した。その後プロデューサー、ディレクターとして機能し、メーカーによる提案型というわが国初のポジションに立って、オンワード、ワールド、イトキンなどのアパレルに、OEMの形態で納入してきた。パリのプルミエール・ビジョンには5シーズンにわたって出展、ニューヨーク、ロンドンの一流百貨店に採用されてきた。現在、アルティラ・ジャパンという名の輸出ブランドを立ち上げ、横浜の五十嵐貿易と結んで、世界に冠たる日本のシルク製品を世界に広げている。
イタリアは色柄は素晴らしいが、素材感では日本に一歩遅れると彼はいう。そこからイタリア一流ブランドへのOEMも手掛けている。現在ファッション専門店やブランドショップで、小物を上手に扱っているところは業績を伸ばしているという状況のなかで、かって小物販売のメッカだった百貨店一階の婦人雑貨売り場の業績は低迷を続けている。かってのブランドブームの折に海外ブランドのライセンスを取りまくり、デザイン内容よりもブランドの名を売ることに熱中してきた後遺症から、今なお抜け出せないでいるようだ。そこから百貨店でも、1階売り場ではなく、上階のアパレル売り場に小物を持ち込むケースが増えている。専門店でも百貨店でも、アパレル、雑貨のミックスが売上げ増の決め手になってきているとすれば、雑貨のデザイナーやプロデューサーが活躍する絶好のステージが、今こそ作られつつある。(散歩目次へ)(toppageへ)
サントノーレ@ サントノーレA サントノーレB
b.眼に触れるままにボンジュール
エルメスの騎馬像 エルメスのショーウィンドー ラクロアの代官山ブティック
パリやミラノのプレステージブランドが、相継いで東京に本格的な城郭を築きつつあることは、このところのトピックニュース。首都の取って置きのロケーションが外資に占領されつつあるかのように憂える見方もあるが、採算に決して甘くはない彼等が、パリ、ミラノ、ニューヨークなど、ごく限られた都市なみの投資価値を東京に認めているだけ、この都市の格は世界的に高いと考えるべきなのかもしれない。もっとも永年ロスに住む私の妹のいうように、アメリカでさっぱり売れない補いを日本でということじゃないという、醒めた見方もないではない。それはそれとして、こうした動向に立ち向かう日の丸クリエーションの健闘を期待しよう。ところで新築エルメスビルの屋上に、馬上の騎士が日仏の国旗をかざしての英姿颯爽を、東京市民はどういう眼で見ているのだろうか。そもそもエルメスが19世紀貴族のための馬具製造から始まった歴史を考えれば、ごく自然な発想なのだろうが、見る人によってはかなり刺激的かも知れない。私はかって西武百貨店に在職していた折に、婦人服部長として当時西武がそのエージェント権をもっていたエルメス販売をも所管していたことがあり、パリを訪ねてその博物館を見学して折に署名した私のサインが、今なお遺されていると聞いたこともある。そんな縁もあって私は、エルメスに対して今なおある種のノスタルジックな気分を持っているのだが、今回のビルで私が最も心惹かれたのは、ショーウィンドウに飾られた、鮮やかなアクリルのディスプレイだった。関西空港を設計したレンゾ・ピアノのガラス張りの建築は、まさに現在の感性を表現して見事であり、戦後日本モダンアートの旗手の一人だった新宮晋の代表作が、ピアノのガラスと対話する姿にも好感がもてた。しかし私にとってこのショーウィンドウの色鮮やかアクリルは、1960年代後半の胸ときめかすファッション革命到来を告げるシンボルとして、私の追憶に今なお焼き付いているものなのである。1960年代に高揚した戦後モダンアートは、やがて商業デザインにも浸透し、パリやミラノ、ニューヨークに相継いでアバンギャルドショップを出現させた。私は68年に開店する西武百貨店渋谷店に、そのアバンギャルドショップを開設することを命じられ、今は亡き倉俣史郎などと組んで、カプセルという名のブティックを開発したのだが、そのプランニングが終わった後、各国の動向を確認するために欧米を一周した。その折、これまた今は亡きパリ駐在部長堤邦子女史のご案内で、パリに高揚するアバンギャルドショップを視察して回ったことがある。結局は私たちのプランが最良という結論だったにせよ、さすがにパリの企画はエキサイティングだった。このほど代官山にラクロア自身がデザインしたブティックは、その折の感動を再現させるに十分だ。こういうパリを、日本の消費者にもっと知ってもらいたいものだと思う。
アランシルベスタイン ズッカのブティック 河津バガテル公園のフランス風民家 バガテルの薔薇園
一流ホテルのフロントデスクは、宿泊カードを記入するお客の手元の時計にちらりと眼を走らせ、お客の品定めをするという。したいものにはさせておけばいい。しかしどうせ高価な手巻き時計に散財するのなら、時にマニアックな好みを見せてやってはいかが。たとえばフランスのアラン・シルベスタインのウォッチデザイン。そのシャープなモダンデザインは、世界の喝采を浴びている。世界きっての一流宝飾ブランドを統合するヴァンドームグループのリーダーシップもあって、このところのヨーロッパ宝飾には、シャープなデザインがふえてきているが、そのなかにもシルベスタインは光っている。その価格は、なかには330万円という高値もあるが、全体としてみれば65万円から35万円と、驚くような高値ではない。ただし各デザインが日本向け限定200〜500個と入手は容易ではない。支払い能力だけでは手に入らないからこそのプレステージではないか。
今さらいうまでもなく、色々なフランスが存在する。正統派があれば異端がある。金で買えるものがあれば、蘊蓄抜きでは意味のないものもある。成熟洗練された大都会があれば、世界屈指の豊かで美しい農村があり、裏町には労働者の宝物が潜んでいる。というわけでたとえば、一生傘下の小野塚秋良、ズッカのブティックをのぞいてみてはいかが。ズッカは最近、青山の根津美術館通りのすぐ脇に、ゆったりとした空間のブティックを開店したのだが、その目玉商品の一つが、ボルドー産のシャツだ。小野塚は前々から、昔風の無骨なシャツを作りたいと念願していたが、ボルドーにそういうシャツを作ってくれる縫製工場を見付けた。パリモードなどとは全く無縁に、ワイン作りの労働者向けのシャツを昔ながらに作ってきた、それならではのフィーリングがそこにあった。私はかって桐生のテキスタイル作家、新井淳一が着ていたシャツに感心したことがあった。何ということはないストライプなのだが、そこには何ともいえない独特の風情があった。由緒を尋ねたら、ドイツのハンブルグが、市のために貢献した人に贈るものだということだった。何処かのデザイナーが作ったものではなく、土地の歴史がはぐくんできたものには、それがどんなにシンプルなものであっても、感動、愛着を誘う力がある。ブルターニュの横縞のシャツにしてもそうだ。そこには英国海峡の潮風が薫っている。というわけでボルドーの工場が作ったズッカのシャツには、葡萄畑を渡る風の表情があるのだ。いずれの国でも田舎の暮らしに触れなければその国が判らず、彼等の好みの源泉に到達できない。フランスでもそうだと思うが、それだけの時間を割けない人のために、伊豆の河津にこの4月にオープンしたバガテル公園が役に立つかも知れない。それはパリのブーローニュの森にあるバガテル公園という有名な薔薇園の姉妹施設なのだが、薔薇園には厚みがあり、そこに立ち並ぶ建物は新築ながら、フランスの古民家を再現する努力が払われている。私はかって英国の草葺きの民家建築をわが国に再現しようと企画しながらついに果たせなかったのだが、その眼でみても一定の評価ができる。シェークスピアの生地、ストラットフォード・アポン・エイボンに見られる英国の古民家などに比べれば、フランス民家はもっとシンプルで清楚な感じのものだが、そういう田園趣味を偲ぶこと無しには、ロココですら本当には理解できないのではないか。
ジュリアン ひとりぼっちのパトシアン もう少しフランス趣味に深入りしたいと思っている勉強家にとって、サントル・フランセ・デ・ザール、中央フランス文化センターという名は、ちょっと気になる存在かもしれない。しかしそれが、レストランの名であるとは何ともはや!白銀台の屋敷町のただ中の邸宅の2階にあるこのレストランの経営者兼シェフのパトリス・ジュリアンは、北アフリカ、チュニジアの出身、60年代、カルティエ・ラタンの五月革命のころには、パリ大学の学生だったというから、ひょっとして彼もバリケードに立て籠もったりしたのかも知れない。その後フランス外務省に入り、駐日大使館の文化アタッシュを勤め、まもなく辞めて東京に住み着いた。そういう関係から三宅一生などとも知ったらしく、私はそのレストランの場所を一生事務所の小室専務に聞いて知った。そのレストランはアポイント制でメニューはお任せ、彼のインスピレーションでそのつど変わる。毎晩7時ころからで入れ替え無し。ジュリアンの創作フランス料理といえようか。そうこうしているうちに乞われて、新横浜の東急百貨店4階にフランス風サンドウィッチ・レストランを開いた。英米諷しか馴染みのない日本人には珍しくもあり結構いける。それでも横浜ではやや遠いと思っていたら、恵比寿駅からちょっと登った丘の一隅に、気軽な店がオープンした。ランチで1500円前後はちょっと高いと思うかも知れないが、本格的なエスプレッソにケーキまで付くのだから文句はいえない。ディナーもそこそこの値で結構楽しめる。しかし彼は別にシェフでもなければレストラン経営者でもない。単行本の企画もすればCDも作っている。そのなかで彼の創作になる傑作は、ひとりぼっちのパトシアンというぬいぐるみの犬。年中寝ているように見えるが、実は瞑想に耽っているのだ。その由来を説き明かすために、「ひとりで考えることをこわがらないで」というパトシアンのバイブルもある。吉本ばなな解説。フランス語で書いてあって、下に小さく日本訳が付いているから、フランス語を読んでいる振りをするのにも好適だ。どこかで俗を抜け出した趣こそ、実はフランスの最も大切なエスプリなのかもしれない。
こうなれば、テーブルに添える花の代わりに、詩の一片を加えておこう。詩も小説もフランス文学は余りにも豊かだが、ここではポール・ヴェルレーヌから一つ。19世紀のこの詩人は、永井荷風の名訳による「珊瑚集」で広く知られている。「秋の日のヴィオロンのためいきの身にしみてひたぶるにうら悲し…」から「巷に雨の降るごとく、わが心にぞ雨の降る…」、あるいは「嗚呼やるせなき追憶の是非もなや、衰え疲れし空にひよどりの飛ぶ秋…」など、上質の演歌調にここ欠かぬ詩人なのだが、以下の詩はひと味違う。道行 「寒くさびしき古庭に 二人の恋人通りけり まなこ衰え唇ゆるみ、ささやく話もとぎれとぎれ 恋人去りし古庭に怪しや 昔をかたるもののかげ …お前は楽しい昔の事を覚えておいでか。…なぜ覚えていろと仰有るのです。…お前の胸は私の名を呼ぶ時いつも震えて お前の心はいつも私を夢に見るか。…いいえ。 …ああ私らふたりくちとくちを合わした昔 危うい幸福の美しいその日。 …さうでしたねえ。 …昔の空は青かった。昔の望みは大きかった。 …けれどもその望みは敗れて暗い空へと消えました。 烏麦繁ったなかの立ちばなし 夜より外に聞くものはなし。」 悔いと諦めを歌う繊細な叙情。フランスならではなかろうか…恵比寿のジュリアンの店には、東京とパリの時を示す時計が二つ置いてある。同じ地球のなかに生きていて、ちょっと時間が違うだけ。それだけ近いともいえるし、そのちょっとした時間差が、なかなか埋めにくい遠さでもある。
先の東京コレクションのさなかに、大著としても高名なマルセル・プルーストの「失われた時を求めて」の最終編、「見出された時」の映画がが上映された。これもコレクションのなかの一つと考えて、時間を差し繰って出掛けた。主人公が生まれ育ったコンブレや避暑に訪れたバルベックがどんなところか、それを確かめるだけでも楽しめるという思いもあった。第一次大戦が終わった後のサロンのパーティに集まった貴族たちの在り方を品定めしながら、そこに繋がる今を思った。そこにおずおずと遠慮がちに加わっていたブルジョアが、やがてその貴族たちが育て上げた遺産である世界の一流品のビジネスを掌中に収め、いま世界にそれらを浸透させるゲームに巨大な金を投じている。そして彼等元貴族はそのビジネスを運用するLVMHなどに、彼等の資産を託しているのではあるまいか。またその映画では、サロンに加わることを許されたファッションデザイナーが、大切な顧客のご機嫌を伺って、おずおずとお愛想笑いを浮かべていたのが印象的だった。今のサロンでは彼等は光り輝くスターで、皆が握手を求めて集まってくる。「見出されたもの」とは一体何なのだろう。(散歩目次へ)(toppageへ)
ジュリアンの二つの時計 見出された時
c.ウィーンとロンドン
ヴェルサクルーム 同右 同右
セント・ジェームズ・クラブ 同右
先の有明のIFF、インタナショナル・ファッションフェアで、嬉しいものに出逢った。オーストリア・ウィーンでバッグ製造百余年の歴史をもつシュナイダー社が、ヴェルサクルム(聖なる春)という名のバッグシリーズをお披露目していたのだった。それは、19世紀末、新しいデザイン表現をめざして登場した英仏のアールヌーボーに呼応して、オーストリア・ウィーンに巻起こった新芸術運動、ユーゲントシュティルが発行した雑誌の名なのである。グスタフ・クリムトやジョセフ・ホフマンなど世紀末を華麗に彩った精鋭が拠るこの雑誌の名の商標権をシュナイダー社が獲得したこと自体、全く異例なことなのだが、その名のもとに今回発表されたバッグデザインのゴブラン織が、「聖なる春」の中核の一人、ジョセフ・ホフマンの図案であることも、ほとんど信じられないほどの素晴らしさなのだ。ヨーロッパ最後の王朝ハプスブルグ家の首都だったウィーンをはじめとするゲルマン系のデザイン活動が、十分に現在の世界の一流品に反映していないことを残念に思っていたさなかに、このような歴史の重みをもったデザインが登場したことは、21世紀における新展開に期待をもたせるに十分だった。戦後わが国最高のインテリアデザイナーだった故倉俣史朗が死ぬ少し前に発表したデザインのなかに、ジョセフ・ホフマンに捧ぐと銘打った椅子があったことを、改めて思い出した。透明なアクリルの、いかにも彼のものらしいその椅子には、薔薇が一輪埋め込まれていたと記憶している。こういう具象的は表現を厳密に避けてきた彼にとって、それは全く異例なことだったのだが、彼がみずから課したそのタブーをうち破るほどに、彼のホフマンに対する思い入れは強かったのだろうか。ウィーンに加えてロンドンを一つ。横浜ファッション協会は、私はそもそもその発足の折から関わっており、その因縁から今でも顧問の名を頂戴しているのだが、前回の総会が野毛山のセント・ジェームス・クラブで開かれたところから、横浜がさりげなくもっている優れたデザインの一つを、偶然に知ることになった。最近新装されたこのクラブのデザインは、20世紀初頭のロンドンの、典型的なエドワーディアンスタイルを再現していると思うのだがどうだろう。穏和で程良く華麗なそのスタイルは、大英帝国最後の繁栄の象徴ともいうべきものだった。特に際立った印象を与えないだけ、それだけ完成されているともいえるのだろう。披露宴に用途が限定されているために、気軽に食事に立ち寄ることができないのは残念なことだ。新装成った横浜グランドホテルの際立った内部デザインにも、先のファッション協会総会の折に触れたのだったが、このような優れたものを何気なくもっているというのが、いかにも横浜らしいおっとりさ加減である。そういえばグランドホテルのレストランの椅子はかって外人サイズらしく高めで、短足の私などにはちょっと座りにく、それが逆に港町らしくて面白かったのだが、改装後はどうなったか。またかってそのメニューにアメリカだったら定番ともいえる七面鳥のサンドウィッチがあって嬉しかったが、今では姿を消しているに違いない。何なら千円賭けてもいい。(散歩目次へ)(toppageへ)
d.犬も猫もステージへ
ジュンコのドッグショー ロシアの猫のドラマ チェコの仮面劇
日本人という人種はとかくシャイで、それでいて無視されると面白くないという、困った体質の人が多いと思うのだが、その点コシノジュンコという人は全く日本人離れしていて、明るくて屈折することを知らず、思いついたことはためらうことなく堂々とやってのける。そのお陰で私も、色々と面白いものを見せていただいてきた。今度の犬のファッションショーなどというものも、私にとって生涯で最初で最後ということになるだろう。ディズニーの犬のキャンペーンの一環だったのかもしれないが、趣旨はともかく、物見高いは江戸の常というものだ。犬たちはさすがに毛並みがよく、よく訓練されてもいたが、ファッションショーというものが全く理解できず、演技の仕方も判らず、うろうろしている間に終わってしまった。でもお客さんは結構エンジョイしていたようだった。犬たちが思うように歩けなかったのは無理もなかった。何しろショーのランウェイを歩くことを、一名キャッツウォークというではないか。犬ではなく猫に合わせて作られているのだから。ところでロシアの、世界でただ一つの猫のショーがあるというので、早速見物に出掛けた。犬というものは主人に仕えて評価されることに生き甲斐を感じる動物だというが、猫は全く違う。いくらご馳走になっても恩に着るということがない。徹底的に個人主義的な動物と聞いている。それがどうして人間の意図するように演技するのだろう。解説によれば、それぞれの猫のやりたいと思うことを見付けて、それを芸にまとめていくのだということだった。日本のヤングが何時のころからか、犬型から猫型に変化したことは広く知られていることだが、その猫型社員の能力をどうやって引き出すかという課題に、この猫芝居がどう答えているのか。別に人を使っているわけでもない私が、終始そんなっことを考えながら見ていたとは、後になって苦笑を禁じ得なかった。それにしても一芸やった後、猫が袖に帰っていく時の一目算の走り方が気になった。お役ご免がそんなに嬉しいのか。それとも裏にご馳走が待っているのか。多分その両方だろう。
チェコスロバキアの仮面劇をやっているというので、これまた早速に行ってみた。評判の映画演劇の話を聞くと、そのうちそのうちと思いながらついつい見逃してしまうのに、こういう見物になると簡単に御輿を上げる。どうも困った行動パターンである。それはそれとしてこの仮面劇は、衣装、装置、演技ともども、いかにも地方巡業の田舎芝居の感があって、それが面白いといえばそうもいえるといった出来映えのものだった。演目は誰でも知っている「ロメオとジュリエット」 きっと何かの祭りに出掛けていっての小屋掛けの芝居ではなかろうか。そう思ってみればそれなりの趣向ではある。こういう祭りの大道芸はいずれの国も似たりよったりだと思うが、国によってちょっと違うところが面白い。かってスペインのバルセロナに行った時、何かの祭りの大変な雑踏に呑み込まれたことがあったが、そこでの大道芸には、日本とはひと味違うものがあった。チュチュをはいてバレエを踊って見せたり、正装で社交ダンスをやってみせたりして投げ銭をもらう。日本で真似たら気が狂ったと思われるだろう。仮面劇を見ながら、今では高名なおんでこ太鼓の一座がまだまともな太鼓も持てないでいたころ、彼等を佐渡に訪ねた時のことを思い出した。一座の若者と一緒に由緒ある寺を訪ね、そこで演じられた文楽風の田舎芝居を、堂の前の筵に座ってみたものだった。そのあと仏堂に通されて住職の来るのを待ったのだが、なかなか現れないのに退屈した座員の若い衆が、仏前の木魚や鉦を叩いて遊び始めた。まもなく住職がやってきて、こんな仏の供養になることはない、さあやってくれ、やってくれと、ビールやジュースをもってきてくれるではないか。もし叱られたら年甲斐もないと我慢していた私も、この際叩かねば損々とドンドコチンチン。こういうのこそ一遍上人の道統を継ぐ名僧というべきだ、さすがは佐渡島だと、感じ入ったものだった。(散歩目次へ)(toppage)へe.ギフトに感動
左回りの時計 一生のジャケットと新井氏のシャツ 中村芳 dth="122" height="163" border="0">